街かどウォッチング

熊野街道の賑わいをしのぶ

構成・文 藤野 勲(図羅)

八軒家浜のオープン

画像 平成20年春、大阪市の天満橋南詰めの「八軒家浜(はちけんやはま)」に新しい船着場と遊歩道がオープンした。江戸時代、このあたりに8軒の定飛脚問屋があったところから、この地名がついたといわれているが、この由緒ある地に斬新な水陸の交通ターミナルが整備されたのだ。平安時代このあたりは「渡辺の津」と呼ばれ、「熊野御幸」の際に京都を舟で出発した一行がここで舟を降り、熊野詣の陸路を辿る出発点となっていた。


蟻の熊野詣

画像 渡辺の津を起点に、四天王寺、住吉大社、堺、和歌山を経て熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)に至る街道を総称して「熊野街道」と呼ぶ。全長は370kmに及ぶ。平安時代中ごろには熊野詣が盛んになり、日本中から熊野めざす人々がこの街道を目指して集まり、途絶えることのないその行列の様子は「蟻の熊野詣」といわれるほどだった。その一部である「中辺路」は、ユネスコの世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている。
 こうした旧街道は時代とともにその機能を失い、当初の街道筋も多くは失われているが、今なお生きつづけている道路もある。旧街道は貴重な歴史的遺産として、あるいは地域の観光資源として、さらには「自然」「健康」回帰のシンボルとして見直されている。


今も生きている旧街道

 そうした旧街道のひとつ「竹内街道(たけのうちかいどう)」は、7世紀のはじめ、推古天皇のときにつくられたわが国最古の国道といわれ、港のあった難波(大阪)から堺を通って東に向い、二上山の竹内峠を越えて、奈良県葛城市に至る街道である。はるか中国から海を越えて運ばれて難波津に着いた人や物や文化、情報が、この道を通って飛鳥の都へと運ばれた。中世には伊勢街道の一部として残り、現在も国道166号線が通っている。飛鳥時代から今日まで利用されつづけてきた道である。
 この竹内街道と平行して整備された「長尾街道」は、古代には「大津道」、江戸時代には「大和街道」とも呼ばれ、堺と奈良を結ぶ物資輸送ルートとして利用されてきた。現在も、堺、松原、羽曳野、藤井寺、柏原、香芝、葛城の各市を結んでいる。そのほか、大阪から和歌山への幹線道路として発達した「紀州街道」は、紀州の殿様の参勤交代にも利用され、その行列の様子は、「てんてん、てんまり…」と童謡に歌われている。高野山への参詣道としては「東高野街道」と「西高野街道」も有名だ。
 これらの旧街道は今も国道の一部などとして利用され、暮らしの中に息づいている。激しく行き交う車の流れを見ていると古くからの街道とは思えないが、道路脇にひっそりと立つ道標が、さまざまな歴史やドラマを感じさせてくれる。画像


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